□□□ 院長の挨拶 □□□

 院長 久志 安範(くし やすのり)

 平成8年1月1日に、与論徳洲会病院は開設しました。徳洲会で30番目の病院、奄美大島群島で4番目の病院です。
私は2代目の院長として、平成10年10月に赴任しました。今年で14年目になります。
徳洲会の哲学として「命だけは平等だ。」理念として「生命を安心して預けられる病院」「健康と生活を守る病院」があります。
更に、徳田理事長はその理念を達成する為に、鹿児島2区から衆議院選挙に立候補しました。与論島は、その鹿児島2区の中にあります。
病院開設の15年前から島民が、奄美の中で一番早くに病院の誘致活動をしていました。自分達の病院であり、自分達が病院を支えている、
また、話をしやすい病院という意識があります。まさに、住民管理、住民参加の病院が実現できていると思います。
当院はベッド数81床(一般病床41床、医療療養型40床)。 デイサービス、配食サービスも実施。
関連施設としてグループホーム(ゆんぬ)2ユニット、多機能型事業所(秀和苑)があります。
与論島唯一の病院施設である為、救急搬送は24時間100%受け入れています。
年間平均救急搬送患者数は約150人、平均年間島外搬送は約20件です。
今後も職員や地域と共同して、島でしか実現できないような最高の医療を模索していきたいと思います。

                                                 平成11年10月の院長コラム

早いもので私が、この与論に院長として平成10年10月に赴任してから、約1年が過ぎようとしている。
昭和58年に徳島大学を卒業後、沖縄南部徳洲会病院に就職。
以後、研修、応援等などの経験はあるものの、転勤は初めてのことであり、離島ではあるが、故郷の沖縄を離れることとなった。

なんと10年間も南部徳洲会にいたのである。
思い起こせば長いような短いような日々である。
辛かった研修医時代も今思い起こせば、俺も若かったと思うような出来事にあふれてる。
その懐かしい故郷を後にして、今度は家族を連れて、しかもフェリーに乗ること4時間。
あいにく海はかなり荒れていて、1メートル位船が上下していた。 立ってはいられず寝台室のベッドに横になって過ごしていた。
嫁さんは船に弱く、完全に死んでいた。1歳の次男は、嫁さんの傍らで眠っていたが、2歳の長男は、やわな大人どもを尻目に自分の世界に入っていた。気がつけばトイレットペーパーを全部解いていたり、枕元の電球を外そうとしたりで目が離せないでいたが、後半やっと眠ってくれた。

与論の陸地が見えて港に着くと、婦長さんと局長さんが迎えに来てくれていた。後で聞くと、海が荒れていて波が高く、いつもとは違う港に着いたとのことであった。そんなこととはつゆ知らず、やっと陸地に着いたとほっとしながら、とことこと先導する車のあとを追った。
病院に着くと、私の代わりに連直をやってもらった、同じ南部から応援に来ている、西平先生にお礼とお詫びを申し上げた。実は前日フェリーに乗り遅れたのであった。車に乗せる荷物が多すぎたのと、朝の時間帯での那覇向けの渋滞の経験がなかったためである。船が寄港する本部港まで、約2時間、自動車道を飛ばしたが道を間違えてしまい、乗り込むことができなかった。

しかし本部港の近くにある、野毛病院というその手では結構有名なコンピュータ化された病院を、見学することができた。その夜は荷物のなくなった元我が家で、親子4人で雑魚寝をした。病院の職員に挨拶をしたあと、早速一時の宿となるアパートへと案内してもらった。先に送ってあったコンテナーから最小限の荷物を取り出して、3階の2DKの部屋まで運んだ。与論の唯一の商店街が並ぶ通称銀座通りがベランダから見える、見晴らしのいいところであった。

ただ一度上まで上るとそう簡単には、階段で下まではいこうとは思はないところであった。
さて、我が家の一匹の雄の番犬は、適当な家が一か月で空くはずであったため、その間、局長さんの自宅でお世話になることとなった。時々愛犬の様子を見に行ったが、彼は満足しているようであった。ただ、あまり満足しすぎて私達のことを忘れはしないかと心配であった。無用な心配であった。局長さんの親父さんの話によると、我が家の番犬は私たちの顔を見ると喜び方が違うとのことであった。やはり時々の、彼との散歩は無駄にはなっていなかったらしい。

一か月位経った或る日、婦長さんが申し訳なさそうにやってきた。当初予定していた家が、空かなくなったとのことである。
今住んでいる人達が今度引っ越すことになる家が、夜眠れない、つまり、霊が出るらしいという。このアパートの一階は後援会の選挙事務所になっていて、ちょうど今の時期は空いている。それなら仕方があるまいと、そこに一時の間借りをすることとなった。30畳くらいの部屋とダイニングキッチン、及びユニットバスから成り、本棚と押入を大工さんに作ってもらった。学生時代の合宿所みたいだと思った。暫くは、ニスの臭いがこもっていたが、1歳と2歳の息子達は早速30畳の部屋中を駆け回ったり、積み上げた段ボールのてっぺんから飛び降りたり、空になった大きめの段ボールを滑り台にしたりで結構楽しんでいた。

私と嫁さんは、照明費と空調費がどれだけかさむのかを心配していた。あまり長くなると迷惑になるだろうと思い、我が家の番犬を引き取ることにした。日曜の夕方に、20分位かけて散歩しながら、我が番犬を連れてきた。
やっと、一家が勢揃いしたとの喜びも束の間、困ったことが起きた。アパートの前は、与論で唯一の商店街である。端から端まで10分もかからない通りではあるが、赤提灯の店が3軒もある。当然真夜中になれば、酔っぱらいが何人も通る。すると、職務を遂行しようと我が家の番犬は、怪しい奴が来たと吠えまくるのである。
真夜中に何度も静かにしてくれと彼をたしなめたが、職務に忠実な彼には聞き入れてはもらえなかった。しかたがなく、彼の一番喜びそうな散歩を真夜中からする羽目になった。するとどう学習したのか、夜が明ける頃に吠えるようなってしまった。アパートにいる手前、彼の要求を呑む日々が続いた。

そんな事情も知らずに、アパートの住人から苦情がでた。
嫁さんは、夜中に吠える犬を飼っても医者は平気なのね、やっぱり医者はプライドが高いのかしらと、言われたと訴えてきた。人の気も知らずになんてことを言う奴だと、怒りがわいてきた。
我が家の番犬は先輩のドクターから譲り受けた犬である。というよりも、2匹の番犬のうち、大人しい方を残していくと言うので、引っ越してきたら、どういう訳か2匹の犬がそこにいた。その内の一匹は老衰で死んでしまったが、気性の荒い一匹をこの与論まで連れてきたのだ。
世間に対して、悲しくなってきた。
夜な夜な家族会議を、嫁さんと二人だけでもった。
1歳と2歳の息子達は、この会議に参加するには、まだ幼すぎた。真夜中にどんなに我が家の番犬が、アパートじゅうに反響するように吠えても、この子供達が目を覚まして起きてくることは、只の一度もなかった。
家族会議の結果、やはり局長さんの親父さんのご厚意にすがることにした。あたらしい、新築の家でなくてもいいから、番犬と一緒に住める家が見つかるまで、しばしの別れとなった。

そういえば、与論にはその頃はまだ、不動産屋さんはなかった。なにせ人口6000人有余、島のバスが通る内回り線は一周約20分。何処に向かって走っても、30分もすればどこぞやで見た景色にぶつかる所である。
頼りになるのは口コミと、車で走っては空いていそうな家を自分で探すという地道な作業しかないと覚悟した。
休みの日に車を走らせていると、当初引っ越す予定であった家の前まで来た。京都ナンバーのランドクルーザーが止まっていた。
どうもその家の住人のものであるようだ。その家は、地元の与論の老夫婦が住んでいるはずである。
変だと思って婦長さんに尋ねると、老夫婦が眠れない家というのは、老夫婦の引っ越し先の家ではなく、当初私達が引っ越す予定であった家とのことであった。目の前が真っ暗になってしまった。

もし、最初に間違えて聞かなかったら、予定どうり一軒家に引っ越していて、こんなに我が番犬のことで苦労しなかったのではないか。自分は今まで霊は見たことがないので、そんなことは意に介さずに、引っ越していただろう。しかし婦長さんの言い分は、小さな子供達が心配だったという。小さな子供達は霊には敏感だからと。
婦長さんの心遣いは有り難かったが、やはりうまく伝えてくれなかった、婦長さんを恨んだ。また、確かめなかった自分を責めた。

あの日傍で一緒に婦長さんの話を聞いていた嫁さんも、私と同じように聞いたという。きっとそのうちいい家が見つかるわと、嫁さんは達観した。しかし私はどうしてもこの点に関しては婦長さんを許すわけにはいかないと、どこか心の中で思っている自分がいることを感じていた。
3月の転勤の季節が与論にもやって来た。
局長さんが、郵便局職員の借りていた家が今度空くらしいと伝えてきた。行ってみると、病院からはそう遠くはなく、港や空港にも近く、周りは農家で牛も飼っている。そう新しい家ではないが、はっきりいうとけっこうふるい。
しかしここなら、我が家の番犬が大きく吠えても許してもらえそうだ。いやこんな田舎道では酔っぱらいは通らないから、そんなに吠えることもないだろう。嫁さんにも家を見せると、同じ意見であった。

そそくさと引っ越しをした。
我が番犬も、40分位かけて散歩をしながら引っ越してきた。彼も気に入ってくれたようである。
暫くすると鹿児島県の県会議員の選挙が始まり、間借りしていたあの後援会の選挙事務所にみんなが集まり、私も候補者の大久保先生の応援をするためにそこいる。今、後援会の人々でいっぱいのこの場所で繰り広げられた、ついこの間の我が家の出来事を思い浮かべながら。

さて、我が番犬は、沖縄南部の東風平町ではけっしてみせることのなかった行動を、この与論で学習した。周囲のにわとりたちと張り合うように、夜明け時に吠え出すのである。しかし、いまはアパート時代のようにそう簡単には、散歩に出してはもらえなくなった。